大阪大学医学部皮膚科学教室
藤浪得二4代教授
昭和31年(1956)−昭和48年(1973)
 谷村教授の定年退官のあと,1年半の空白期間をおき,昭和31年(1956)8月藤浪得二先生が後任教授に就任した。藤浪得二教授は昭和8年京都帝大医学部を卒業,同大学皮膚科学教室に入り,昭和12年から数年間応召され,帰学と共に16年講師,17年助教授を経て,本学教授として迎えられたもので,その間20年学位授与,28年アメリカ合衆国に研究視察のため出張,昭和30年京都の第54回日本皮膚科学会総会において「人体皮膚の体外培養について」の特別講演を行われている。着任当時の教室は志水靖博助教授を筆頭に,助手蔭山亮市民(昭和21年本学卒一現大阪労災病院部長)以下7名,副手2名,研究生10名,大学院学生1名であった。同時に泌尿器科教授も選考されていたので,旧谷村教室の助手級若手は夫々希望に従い両教室に2分されたこととなる。
 昭和32年以降も毎年本学出身者をふくめ2〜数名の入局者があり,特に昭和40年に到り7名(昭和39年卒)の大勢を算えた。之は昭和14年度の8名に次ぐ記録であり,その上各年度大学院学生が入り絶えなかったことも特筆すべきことで,教室は一躍隆盛の一途をたどった。また泌尿器科を分離した加減か,女医の入局が増えてきたのも過去に見ない現象であった。その間昭和35年(1960)志水助教授が国立大阪病院皮膚科部長として転出のあと,坂本邦樹博士(昭和23年本学卒)が奈良医大助教授から後任助教授として転任した。
 藤浪教授は教室の新しい研究テーマとしてそれまで京都大学で行ってきた「皮膚の体外培養」と「皮膚の体外保存(皮膚銀行)」をとりあげ,研究手技として組織培養を教室に導入された。大学院学生には夫々基礎教室に派遣して新しい研究手法の修得につとめ,基礎から臨床への有機的な結合をはかると共に,将来の教室指導者の育成をめざした。即ち末梢神経染色(大阪市大鈴木解剖学教室へ奥村雄司),組織化学(本学清水解剖学教室へ橋本武則,田中卓,堀木学,高安進),遺伝(本学遺伝学教室へ喜多野征夫),ウイルス(微研奥野研へ畑清一郎,加藤研へ谷垣武彦),電顕(微研深井研へ遠藤秀彦),免疫アレルギー(微研天野研へ西岡清),生化学(本学痛研生化学へ吉川邦彦),形成外科(東京警察病院へ薄丈夫,松本椎明)等々,更に昭和37年には微研藤野研より赤木正志氏,京大医化学より田代実氏の転入があった。
 更に三木吉治(昭和30年本学卒,現愛媛大学教授)の昭和31年米国コロラド大学を囁矢として,続々と海外留学が旺んとなり,マイアミ大学(相模成一郎,吉川邦彦),西独ミュンへン大学病理(蔭山亮市),米国国立膚研病理及びタフト大学皮膚科(橋本武則),英国セントジョン病院(青木敏之,西岡清),米国オレゴン霊長類研究所(喜多野征夫,高安進,遠藤秀彦,吉川邦彦),カリフォルニア大学皮膚科(谷垣武彦)等を算える。このように若い教室員の積極的な意慾によって新しい皮膚科学,インターナショナルな教室をめざして清新の気が溢れ,ここに戦後ははじめて終ったという感があった。
 医局長は橋本誠一(昭和31〜38年),相模成一郎(昭和38〜39年)がつとめ,藤浪教授,志水,坂本助教授を助け,和気藷々とした雰囲気があった。同期生をふくめ教室員間の結婚が何粗か出来たのも,その間の空気を物語るものでほほえましい。藤浪教授も教授室にとまりこんだり,後には病院裏のマンションを借りられ,遅くまで研究並びに研究員の指導に当られていた。藤浪教授は個々の自由な発想を尊重され,若くとも一人前として取扱われていたようで,同時に発足した泌尿器科教室の楠隆光教授のハードトレーニングとは好対照をなしていた。
 外来診療は京大式(?)に主治医制をとり,卒後早くから独立して診察者として責任と自覚をうながされた。また関連病院においても古い先輩諸氏がぼつぼつ退職され,新旧交代期にさしかかってきた時でもあり,大学院終了者をはじめとして教室員の市中病院ローテートが行われ,之も40年ごろまでは概ね円滑に行われていた。同窓会との関係は教室内が若手に置換わったので,先輩との連絡が十全であったとはいえないまでも,毎年同窓会総会が行われ,また別に1,2先輩有志の発案で近畿地区諸教授もまじえ,「藤前会」を組織し,藤浪教授をサポートした。
 昭和35年(1960)4月には第59回日本皮膚科学会総会が藤浪教授を会頭として大阪毎日ホールで開催され,志水助教授が「ウイルス性皮膚疾患の研究」なる宿題報告を行い,昭和39年(1963)4月には第16回日本医学会総会分科会兼第62回日本皮膚科学会総会が御堂会館で開催され,会頭藤浪教授は「乾癖について」と超して宿題報告を行っている。
 また特筆すべきは教室から「皮膚」(永井書店)が昭和34年(1959)発刊されたことで,之は当時新旧学位制度の切り換え時に当り,論文掲載誌としての必要にかられた精もあるが,阪大に専門誌を持ちたいという兼ねてからの念願(開講30周年における田上先輩の項参照)でもあった。昭和36年(1961)には大阪地方会の機関誌として移管され,以後季刊誌として年4号発行,今年20巻をかぞえ国内専門誌として定評あるものとなった。また同時にカラー写真を主とする「皮膚病図説」(永井書店)も教室の編集で刊行されたが,近年カラー写真の普及と共にその目的を果して廃刊となった。
 発刊及びその維持には幾多の難問題もあったが,藤浪教授の上記2誌にかけられた熱意はすさまじいもので,「大教室に発表誌なかるべからず」とのことであったが,先生の心の底には京大の「皮膚科紀要」に対する対抗意識がなかったとはいえない。
 その間の教室業績は藤浪教授就任10周年記念業績目録(1956〜1966)にまとめられ,発表論文は388篇,学会発表952題の多きを算える。その内容は目録及び医学伝習百年史に譲るが,当初の「組織培養」からウイルス,アレルギー,免疫,生化学,病理組織,組織化学,電顕へと拡大発展し,極めて多彩なものとなっている。また欧文論文も年間数篇から10篇近くを算える。また昭和44年(1969)11月には藤浪教授還暦記念論文集が「皮膚」特別号として発行されている。
 このように藤浪教授着任10年にして教室第2の黄金期というべき充実した時期にさしかかったが,好事魔多しというか,昭和39年ごろから藤浪教授は高血圧と痛風のため休養の日が多くなり,41年以降は臨床系大学院拒否斗争のため大学院生が入らず,続いて43〜44年の学園紛争の渦にまきこまれ,入局者は激減し教室そのものも大きな変貌を呈してくる。
 即ち昭和43年2月東大紛争に端を発し,またたく間に全国に波及したが,阪大医学部では42年度頃から青医連により登録医制度,報告医制度反対という運動があったが,まだ比較的平穏で,43年9月にいたり,時の山村医学部長の手で各層の「公聴会」が開かれ,「大学病院のあり方」「大学院制度」「専門医制度_」「講座制」等々が討議され,民主的に医学部のもつ矛盾と欠陥を改善してゆこうとした。12月には自主的組織として,教授以外の全教官よりなる教官会が発足した。その中でまづ教授選考(第2解剖と脳外科)の停止から助手任用にいたるまで全面停止となり,次いで44年2月には医学部長,附属病院長選挙方法の改正が迫られた。このような全国的規模の学園紛争に対して政府は44年7月大学臨時措置法(大学立法)を可決したため,紛争校は異観に対処せざるをえず,阪大も釜洞総長就任後紛争は急速に終煉に向った。医学部では長く停止されていた教員任用の再開をはかるため「教員選考方法の暫定措置」をとり,選考委員の構成を教官の他無給層まで拡げ,選考過程の公開ということになった。他に教育・研究・診療の三体制の改革,卒後研修のあり方等については今後も引続き検討ということで一応紛争は収拾された。
 このような嵐の中でわが教室においても,皮膚科教室会が結成され,次のような規約が設けられた(昭和44年6月)。(前文)ここにいう皮膚科教室とは,大阪大学医学部において皮膚科学の発展をめざして行う研究,教育の場であり,それに従事するものが構成する自主的組織である。教室の運営は民主的に行われなければならず,職階や身分制などの一切の権威による強制や抑圧はみとめられない。教室の全構成員は,教室の運営に平等の権利と義務をもって参加するものである。
 以下省略するが(目的)(構成)(入退会)(会議)週1回の開催,(議長),(委員会)研究,教育,診療など(不信任)等の条目がならんでいる。 従来学生の講義は主として藤浪教授,坂本助教授,後に相模助教授によって行われていたが,藤浪教授の病欠と以上のような教室の変革によって教育委員会の立案運営のもとで教官が分担して行われるようになった。ベッドサイド教育が重視され,昭和44年度よりはポリクリ学生(10〜12名)を対象に午前9〜10時の間各教官によりテーマ別のセミナーを行い,その後学生は5〜6名づつ2グループに分れて,夫々外来,病棟で1人づつの患者を受持ち2時間の診療実習を行っていた。
 また病院改築の期に当っていたので,外来診療室と病棟はその進行に伴って移転をくり返し,外来は旧本館1階(西側)から旧北病棟1階跡,東館6階病棟跡を経て,新築の診療棟2階へ,病棟は北館2階から旧中央館2階,東館6階を経て,新築の新病棟東5階へと移転した。医局も旧本館2階(西側)から東館6階へ移転した。研究室も病院改築に伴い,病院8階,9階及び東館6階に分散している。このような頻繁な移転により,図書をはじめ教室備品の散逸も可なりあり,各人分散して一同に会し談笑する場と機会が少くなり,教室員の融和という点に問題をのこした。皮膚別館は微研療研究部の吹田地区移転(昭和43年)に伴い,1階は従来通り療外来診療室として使用しているが,2階以上は空屋同然となり,わずかに梅毒血清反応研究室(本多一博士)がのこっているにすぎなかった。
 昭和45年(1970)以降は博士号の拒否運動もあり,教室にわいては学位論文の提出はない。卒後研修は,青医連の結成以来,臨床研修の自由選択を基本としてローテイト研修,ローテイト後も各講座間の制約にとらわれることなく,名志望系の研修を行う,研修期間は2〜3年,身分は病院長に所属という原則で,研修医が釆ても半年毎にぐるぐる出入して定着するものは極めて少なかった。とくに講座医局制の否定,専門医制反対等のスローガンから,いわゆる教室員としての入局は43年度以降は蓼々たるもので,また皮膚科医としての修練において著しく不足していた。それには受け入れ側の教室に毅然たる指導方針がなく,熱意と魅力に欠けるといわれても止むをえない面があった。ただ1つ民主的運営をうたって,教室会議が絶対の力を有していた。些細なことを巡って藤浪教授と1〜2教室員との確執も伝えられ,ために先生の血圧は更に上った。
 市中病院との関係は教授による人事支配が論点となり,従来先輩が営々としてきづいた関連病院のジッツが後継者を得ないまま,漸次その数を減じていた。このよう教室と外部病院との循環が障害きれると,一且助手をやめて外国留学すると帰国しても元の籍に戻れず(教員選考暫定措置の煩雑さも加わり)無給のままか,中には他大学に去るものもあり,従って民主的な出張人事をめぐって陰湿なトラブルがおこり,お互の不信を来し個人主義的な丑に入りこんでしまう。研究面でも折角優秀な才能と外国仕込みの技術が教室に還元出来ず,また若い後継者が入らないため,或は育たないため一匹狼的な存在におわり,近代科学から大きく立遅れてゆく。このように教室民主化の裏に診療,研究面に多くの危惧すべき問題点をはらんでいた。
 その間昭和46年相模助教授が教室を辞し,大津日赤病院部長として転出した。その後任選考がかかる教室の空気の申で進められ,選考委員会で討議きれた結果,投票で教室内講師をおさえて教室先輩某博士が推薦せられた。同博士は荏局中立派な仕事をされたが,何年も前に内科に転じ,近年皮膚科学会の活動が全くない点が問題となった。かかる人選結果は選考委員長の藤浪教授の意図とは反する所で強く不満とされ,病気の悪化,自宅静養のまま,教授会への推薦は延々となっていた。その前後の模様やバックグランドにある教室の混乱ぶりが,学内はおろか,各大学皮膚科に聞こえ,批判の的となった。正しくいつか釆た道を辿りはじめていることに気付くのである。
 その中で昭和48年(1973)4月1日,藤浪教授は定年退官され,兵庫医大教授として移られた。最終講義もなく,固辞されたのか退官記念会ももたれなかった。
 藤浪得二先生は藤浪鑑先生の次男として生れられ,頭脳明噺,また業績からもうかがえるように先見の明あり,京大時代早くより前途を嘱望されいうならばエリートコースを進まれた方で,阪大の後半健康をそこなわれたこととJ学園紛争のあふりを食って最終の美を飾れなかったことは御気の毒であった。また組織力も十分持っておられ、「皮膚」の創刊,一時は皮膚科学会の若手教授助教授をあつめα会を組織されリーダーとして活躍きれていた。また考え方も自由で近代的であった0御人柄はきわめて純粋な坊ちゃん気質で,人なつこく又はにかみ屋でもあられた。しかし高血圧や痛風の関係もあろうが,一面頑固で好き嫌いの強い方ではなかったかと思う。その点誤解されるふしもあり,とくに宴会とか酒の席はお嫌いなようで,阪大の教授諸公,或は同窓会先輩には知己が比較的少なかったのではないかと思う。御本人は阪大にとけこもうと努力されていたに違いないが,やはり大阪の水にはなじまなかったとすると不幸といえよう。事実兵庫医大へ転じられてからは元気となられ,新しい教室造りに意慾をもやされていたが,昭和52年5月23日脳卒中で逝去きれた。享年67才。

皮膚科同窓会誌−開講75周年記念誌−
佐野榮春第5代教授著 
「大阪大学皮膚科学教室75年の歩みを顧みて −教室史によせる反省−」より抜粋 
昭和53(1979)年6月発刊 

※一部加筆修正箇所