大阪大学医学部皮膚科学教室
佐野栄春5代教授
昭和49年(1974)−昭和59年(1984)
 藤浪教授退官のあと約1年を経て,昭和49年4月16日,神戸大学医学部教授佐野栄春が後任として着任した。4月上旬神戸において第73回日本皮膚科学会総会を担当した直後で,残務整理の加減もあり,神戸大学教授を併任のままで,週の半分出勤し,学生ポリクリ講義を受持った。7月31日神大併任を解かれ8月1日阪大専任となった。
 佐野は昭和19年9月本学卒,海軍短期現役として兵役に服し(海軍軍医中尉),終戦後復員,21年1月佐谷・谷村両教授の門を叩いた。特別大学院学生1期一助手を経て,−昭和25年1月県立兵庫医科大学(後の神戸大学医学部)皮泌科助教授として赴任した。神戸においては教室先輩上月芙教授(大正14年本学卒)の指導をうけ,昭和37年(1962)8月講座分離に伴い,皮膚科学担任教授となった。阪大時代,鼠癒,皮膚結核並びに学生時代業室研究生として厄介になった第3解剖学教室黒津敏行教授の指導をうけ「自律神経中枢と皮膚アレルギー反応」につき検討し,学位授与を得た。神戸では組織化学からスタートして結合織の代謝とその異常につき,多くの教室員の協力を得て研究を行った。
 母教室とはいえ,24年ぶりの帰学で事情は全く判らないので,白紙の状態から再出発しようと考え,まづ教室会議に出席し,また個々に教室員との対話から始めた。前後するが,例の助教授選考問題は私の赴任に先立ち,教授会において投票の結果否決された。このような結果は全く異例なことに属するので,早速教室会議では再三討議のすえ,教授会あて抗議文を提出した。
 教室における教育,研究,診療につき数カ月を要してディスカッションしたが,一部のものが声高くどうどう巡りの原則論をぶち,他はノンポリ然として疲れ切った表情で黙しているばかりで,そこから何の具体的な発展も見られなかった。日く,教授権力の排除,民主的平等,講座制の打破,自主的研修,専門医反対,臨床に結びつかぬ研究の否定,業績第一主義反対,産学協同反対,さては低医療政第反対云々等公式論から一歩も出ていなかった。とくに若い連中から何をやりたいとか教室の将来はどうかというような話が出ないことは甚だ淋しい次第であった。
 外来,病棟診療もその運営上色々問題点をもち,卒後教育については自主的研修の名のもとに従来放任に近い形であったため,基本的な皮膚科的トレーニングにおいて甚しく他に劣っていた。要するに眼かくしされたまま,長い鎖国の状態にあったというべきであろう。しかしながらその壁は厚く,大学又は教室に対する理念の相違はさておいても,各個の利害関係も之れにからんでいるので,一朝一夕には解決できず,暫しの時間が必要と感じた。
 そのうち昭和50年3月三木吉治講師が助教授に昇任,ついで高安進助手(昭和36年本学卒)が講師に,遠藤秀彦君(昭和38年本学卒)が助手に,51年4月には愛媛大学皮膚科教室が開設され,かねて内定の三木吉治教授,川津智足助教授(昭和39年本学卒),川津友子講師(昭和39年本学卒),山田徹太郎講師(昭和40年本学卒)のスタッフで松山に赴任した。教室の一大発展であり,誠に喜ばしいことである。赴任に先立ち2月ロイヤルホテルで同窓会諸先輩及び近畿一円の皮膚科代表者を招いて,三木教室の発足と前途の発展を祝した。同じく同年4月には府立羽曳野病院にアレルギー皮膚科が設立され,青木敏之博士(昭和35年本学卒)を医長(大阪府衛生部兼任)として藤田益子(昭和42年和歌山医大卒),秋元隆道(昭和47年本学卒),藤井香代子(昭和50年和歌山医大卒)の諸君が転出,その後清澄に診療と研究に従事し実績を挙げていることは関連病院のあり方に1つの手本を示したものとして高く評価したい。
 このように教官の欠員が出来たので,同年5月奥村雄司講師(昭和31年本学卒)が助教授に,喜多野征天助手(昭和37年本学卒)が講師に夫々昇任,新らしく助手として学外から西岡清君(昭和39年本学卒一関西医大講師)と新海淀君(昭和40年神戸医大卒一神戸大学助手)を迎えた。またマイアミ大学より帰学した吉川邦彦君(昭和39年本学卒)は望まれて名古屋市立大学助教授として昭和51年3月赴任した。6月には遠藤秀彦助手が関西労災病院副部長に転出した。9月には橋本公二君(昭和45年本学卒),佐藤健二君(昭和46年本学卒)が助手となった。
 西岡,新海両助手は高安講師の協力を得て,早々に8階研究室(生化学部門)の整備にかかった。それに従って東階6階の一部を化粧品障害部門の研究室に模様変えした。また女子研究補助員を雇用して,8階研,9階研(メラノサイト,ケラチノサイト,ウイルス部門)及び東階6階に夫々所属せしめ,現在5名のお嬢さんが研究補助員として働いている。また従来より教室病理組織担当にあたっていた右近氏が愛媛大学へ転じたので,その後任に西田君を迎えた。
 このようにして研究態勢はかなりととのいつつあり,深夜に及ぶまで研究室の明りがついている。あとは各研究班に若手の後継者の養成がのぞまれることと,各研究プロジェクト間の有機的な連絡を考慮して,3カ月毎に研究発表連絡会を開いている。
 卒後教育及び診療面は着任以来何とか改善したいと考えながら諸般の事情で果せないが,僅かにかねてから懸案であった土曜休診がやっと52年5月実現し,従来日をかえてバラバラに行っていた廻診,病棟カンファレンス,外来スライド及び組織検討会,抄読会,(それに教室会)を土曜am.8.30〜12.00の間にまとめることが出来た。それによって研究なり病棟診療に十分の時間をさくことが出来るが,一面土曜午前のことで関連病院や開業の先輩諸氏の参加が得にくくなったこと,又従来行っていた患者の検討会(供覧)がとだえていることは残念である。研修医も漸次増加の傾向にあるが,入院ベッドが20数床で限られているので,当然外来診療にも重点をわかねばならないので,現在の診察態勢の再検にせまられている。形成外科は熱傷後植皮,悪性腫瘍の治療として必要であり,また社会的なニードも大きいが,教室では住友病院形成外科の応援を乞い,薄丈夫部長(昭和37年本学卒)の学生セミナー,松本椎明医長(昭和39年本学卒)の手術指導を仰いでいる。
 市中病院との人事の交流は教室の発展上極ぜJて大事なことであるが,お世辞にもうまく行っているとはいえない。就任以来,厚生年金病院,堺市民病院,豊中市民病院から部(医)長を求めて来られたが,希望者はなく2〜3の教室員に特に頼んだが駄目で,他学皮膚科にゆだねざるを得なかった。他に大阪中央病院,東大阪市民病院も希望者なく外部の万に依頼した。大阪地区の教室関係の医長会(皮膚科懇談会)が年2回持たれているが,現教室員とのより密接な交流を紙面を借りてお願いしておく。
 昭和52年5月元助教授相模成一郎大津日赤病院部長が兵庫医大教授に就任,8月にその助教授として関西労災病院の遠藤秀彦博士が発令された。8月には奥村雄司助教授が開業し,その後任として高安進講師が助教授に,西岡清助手が講師に夫々昇進,そのあとに愛媛大学助手として1年間出張中であった晒千津子君(昭和49年和歌山医大卒)が助手として帰屈した。また新設の大分医科大学には教授として高安進助教授,助教授として新海法助手が内定していて,昭和55年4月赴任の予定である。尚52年10月メキシコの国際皮膚科学会には高安進,畑清一郎,喜多野征夫,西岡清,小塚堆民,橋本公二の諸君が出席講演した。53年2月には松林周邦君(昭和45年神戸大学卒)が「皮膚線維肉腫のコラーゲン及びムコ多糖の生化学的性状」(英文)及び吉川邦彦君が「尋常性乾癖表皮におけるサイクリックAMP形成異常」(英文)の夫々学位論文を提出し,学位を授与された。昭和45年以降久しく絶えていたことである。
 医局年間行事としては1月6日の新年宴会及び忘年会の他,随時送迎会をのぞいては定着したものが未だなく,夏期のレクリエーションも51年度白浜で行ったのが唯一つである。医局野球は49年4月神戸にわける日皮会総会前日の各大学戦において,サウスポー高安投手の好投によって決勝に進出,東大と引分けという眼をみはらせるようなフロック(?)もあったが,その後は実力相応,院内或は関西医大,兵庫医大等と親善試合を行い楽しんでいる。
 このようにして着任以来間もなく4年を迎えるが,その間教室を預かってその重責を果したか,又その実が上ったかとなると,省みて誠に田悦たるものがある。まだ教室の中は完全に足なみがそろっているとはいい難く,今後も相互信頼と和を第一として努力したい。しかし幸なことに去年(昭和52年)は4名,本年も数名の入局予定者があり,若い力の舌i頭に大いに期待している。また高安助教授以下多くの教室員の一致団結により,伝統ある教室を昔日にもまして充実したものにしたいと祈念している。先輩諸氏の忌惇のない御叱声と御助力をお願いする次第である。最後に現在行っている主な教室研究テーマと教室員を御紹介しておく。
 
1.免疫アレルギー班(西岡滞ら)
a)接触アレルギーの機序:DNCB感作動物における表皮キャリアプロテインの分析,感作リンパ球によるMIF,細胞性免疫と液性抗体との関係,Cutaneous basophilic hypersensitivity等。
b)天痘瘡,類天癌瘡における免疫学的研究:基底膜抗原,表皮間物質抗原の分析 C)Immunecomplexの測定法
2.結合織班(新海法ら)
a)コラーゲン線椎形成と制御機構:線維形成に関与する諸酵素及び構造糖蛋白,ムコ多糖の相互関係,コラゲナーゼの活性調節,コラーゲン分子種の組織内分布等。 
b)先天性結合織代謝異常症:Ehlers−Danlos症候群,Pseudoxanthoma elasticum等につき基本的欠損部の解明 
C)結合織の面からみた膠原病,血管炎の解析
3.性ホルモン班(高安進ら)
a)脂脱毛嚢系における性ホルモンの代謝,作用機序 
b)培養線椎芽細胞を用いた男性ホルモンレセプターの測定
4.ケラチノサイト・メラノサイト班(喜多野征夫ら) 
a)組織培養によるメラノサイトに対するホルモンの影響 
b)組織培養を用いたケラチノサイトの角化調節因子の解析
5. ウイルス班(畑清一郎ら)
a)癌疹ウイルス患者の血中抗体,皮内反応,細胞性免疫の研究 
b)伝染性軟属隆ウイルスの分離
6.化粧品障害における化学的分析(小塚雄民ら):赤色色素の化学的分析,他にラノリンアレルギーについて
 
教室員(昭和53年3月31日現荏)
(教授)佐野栄春,(助教授)高安進,(講師)畑清一郎,喜多野征夫,西岡清,(助手)田代実,谷垣武彦,新海淀,小塚雄民,橋本公二,佐藤健二,晒千津子,(医員)多田正憲,田津原桂子,(研修生)吉間英堆,片山一朗,渡辺淳子,久保俊子,城良子,(研究生)山本正勝,田口毅,原田誠,谷村忠昭,伊藤武彦,横見育子,藤本圭一,宮脇明之,大里和久,中村俊孝,松林周邦,奥村睦子,伊藤明子,岡田奈津子,(見学生)時実和子,市原総子,外地鑑子,三浦淳子,(非常勤講師)伊藤利根太郎,薄丈夫,池上隆彦,(学内非常勤講師)志水靖博,蔭山亮市,小林浩,中尾正敏,橋本誠一,相模成一郎,三木吉治,青木敏之,吉川邦彦,松本椎明(技官)西田健樹,(教室秘書)長幸子,(研究補助員)福西英子,永田恵里子,永田友子,寺西篤,中村由美(医局長)高安進(外来医長)喜多野征夫(病棟医長)西岡清

皮膚科同窓会誌−開講75周年記念誌−
佐野榮春第5代教授著 
「大阪大学皮膚科学教室75年の歩みを顧みて −教室史によせる反省−」より抜粋 
昭和53(1979)年6月発刊 

※一部加筆修正箇所