大阪大学医学部皮膚科学教室

佐谷有吉2代教授
大正15年(1926)一昭和21年(1946)

 櫻根孝之進教授の退職後,大正15年11月東京・三井慈善病院(現在の東大分院前身)の皮泌科部長であり,東大講師でもあった佐谷有言博士をその後任教授に迎えた。佐谷教授は明治44年東京帝国大学医科大学医学科を卒業,大正3年8月京都府立医専教諭を経て大正7年(1917)から約2年間米国パルチモアのジョンホプキンス大学のYoung教授の下に留学され,尿管の生理について優れた研究を行った。診療については当時最新式の膀胱鏡を駆使し,また排泄性腎孟撮影を導入して,阪大における近代泌尿器科設者となった。皮膚科の万は時の助教授谷村忠保博士が専ら研究指導に当り,多数の教室員を擁して泌尿器科,皮膚科共に多くの業績が挙げられた。佐谷教授は療及び鼠療にも深い関心、をもたれ,谷村教授,櫻井方策博士,西村真二博士(共に後に微研教授)と共にその方面にもパイオニア的な業績をのこされた。
 ここで皮膚科別館及び財団法人大阪皮膚病研究会と教室の関係につき触れておきたい。このことは大正14年櫻根教授が大阪の某篤志家より療の研究治療のために10万円の寄贈をうけたことに始まり,佐谷教授が之を引継ぎ,昭和6年阪大付属病院構内に財団法人大阪特殊皮膚病研究所の建物(現皮膚科別館)が落成し,昭和7年大阪帝国大学に寄贈されると共に皮膚科教室の所属となり,次いで昭和9年9月微生物病研究所に移管されると共に上記研究所は微研療治療研究部となり,佐谷有言教授は微研教授を兼任し初代部長となった。その後は微研癒研は皮膚科教室と表裏一体となり,皮膚科別館において療及び鼠癒の研究が旺んに行われ,とくに昭和16年以降谷村教授時代には教室のメインテーマの1つとして多くの業績が発表せられた。一万昭和5年雑誌レプラが刊行(最初は年4回,その後年6回)され,昭和12年からは日本療学会の機関誌となった。
 佐谷教授は着任来,京大松本信一教授,京都府立医大中川清教授と相計り,3大学間の学問的交流と親睦をはかる目的で,近畿皮膚科泌尿器科集談会を創立し,昭和2年(1927)11月6日第1回集談会が京大禁友会館で開催された。その後春秋2回,京都と大阪で交互に開かれていたが,戦後中部連合地方会の発足と共に春の1回となった。更に泌尿器科の分離に伴い近畿皮膚科集談会と改称されたが,今日に到るまで発足時の3教授の意向通り肩のはらない気楽な会としてユニークな存荏を誇っている。
 佐谷教室における業績は皮膚科領域に限っても多方面にわたっている。試みに学位論文別にみてみると,細菌の皮膚透過性,皮膚の糸状菌感染と糸状菌学,梅毒,とくに駆梅療法,ワッセルマン反応等感染症乃至免疫学的研究,一方SH基の重金属に対する解毒作用,ビタミン(ビタミンC,ビタミンP等)等生化学的研究,他に庶糖摂取と皮膚の炎症,或は皮膚温とその変動等生理学的方面,赤外線と皮膚,超音波とスピロへ−タ,ワッセルマン抗原等,或はモルモットの皮膚移植,生毛移植等々,時代の先駆的なテーマも手がけられている。療,鼠療については次項でまとめて記すこととする。
 当時の教室の模様を2,3同窓会誌から拾ってみることとする。まづ昭和9年4月29日に教室開講30周年記念の式典及び懇親会を行っている。厳密には昭和8年1月が開講30周年に当る訳であるが,丁度佐谷教授が外遊中であり,その為1年延期したという事情があった。同窓会雑誌(第6巻)昭和10年4月号から当日の医局日誌をみると,「綿業倶楽部にて開講30周年記念祝賀会。遠近より多数参列。佐谷先生,横根先生を始め開講当時の模様御経験談並に先輩諸氏の祝電通信等を面白く承る。一同は朗らかに愉快に此の記念すべき一夕を心ゆくまで,時の経つを忘れて爆笑の交響楽もなごやかに歓をつくす」とある。
 その席上佐谷教授の挨拶によると,教室メンバーは教授1名,助教授2名(谷村忠保,横井万策),講師4名(今北力,横根好之助,上月実,原田久作)助手3名(山本弘,西山敬三,原田貞知),副手16名,医員8名計34名,他に大学院学生1名,専攻生12名,中華民国派遣見学生1名,総員48名の大世帯であった。診療面では昭和8年度の統計によると,新来患者数7,480,再来患者延数21,248,入院患者延人員は6,051,皮膚科総収入は102,587円84鋲という。発表論文は年間28篇であった。記念号から同窓会員の「消息と感想」を抜草すると,
「Mukashiokaerimireba kangaimury6 toiukotoba o mochiiru koto ninatteiru ga,Satesono kans6wa d6katotowareru naraba,imanoIkyoku no shimpo hatten−burio yorokobi,naOkononochimo masumasu hatten sareru koto o inoru nomide arimasu.Kono kikwaio rlyOShite,Shokun no gokenko oinoriage masu」
(Sakurane Konoshin)
 「同窓会誌の夕いこ教室より専門機関雑誌の発刊せらるる事の1日も早からんことを望む」(田上初雄一大正6年本学卒) 「集談会や同窓会,抄読会等開催の折に最近迄教室に在って開業している人の出席率の悪いのは他の教室にその例を見ず,如何の理由かと不思議に存居候……」(江里口春志一大正12年熊本医専卒) 他に30周年記念として同窓会員の写真アルバムを作っているが,極めて豪華なもので個人写真の他に病院教室診察場或はピクニック等の行事の写真も網羅きれている。その「はしがき」として佐谷教授は次のように述べている。
 「古くからよく十年一と昔と云うが,徳川太平の時代でさえ,十年もたてば,世相に可なりの変転があったものに相違ない。明治維新以後,大正,昭和を通じて,世は更に日進月歩で,十年どころか五年はおろか,一年の間にでも隔世の感を懐かしめる様な変遷をする時世である。この間に我教室は三むかしの齢ねた−しかも絶えず進歩の尖端にあって一その同窓は学問や職業の上から云えば,兄弟もただならぬ間柄であるが,何分教室の歴史が長い年月に渡って居るので,兄は弟を見知らず,弟は兄を覚えないと云う様な,甚だ迂潤なこともできて来る。又お互に遠く離れたり,或は月々の仕事が忙しかったりして,昔の相棒も,其後は親しく逢う機会もなく,僅かに筆の便に消息を通ずる様な物足りない感じを常々懐いて居ることである。足れが30周年記念として,同窓会員全体の写真帖を作ろうではないかと云う,話の纏まった所以であると思う。其撃咳に触れずとも,せめてはありのままの姿に接して温故の情を切にし,知新の喜びを味うことは,今回の記念として,真にふさわしいことでなかろうか」。
 当時の医局行事を日誌から拾うと,正月佐谷先生御宅に年賀,一同参上例年の如く御馳走となる。医局対抗乃至病院内野球試合がその都度勝敗スコアーと共に記され,時に医長殿御出場とある。春秋医局ピクニック,7月26日には天神祭。大風水害の記事もみえる(昭和9年9月21日)。大晦日には佐谷医長寄贈の忘年牛肉大食会。他に定期的な抄読会,集談会,学会記事は勿論のことである。そのような平和な日々の中にも防空演習,安藤秀夫,森野昌一氏入営送別会等,世相を反映して一抹の蔭が通りすぎる。
 昭和11年11月22日は佐谷教授赴任満10周年の記念行事が行われ,午後1時より恵済会館で先生並びに御家族と現旧医局員職員の記念昼食会,午後2時より4階大会議室で寿像贈呈式,午後3時から物故会員追悼会,5時半から南地「本みやけ」で祥友会が開かれている。同12年9月佐谷教授は附属医院長に就任された。同13年12月発行の同窓会誌は祥友会誌(創刊号)と改称される。
 祥友会誌に「銃後医局だより」として佐谷先生の横薗がのっている。「今更云うも愚かなり,我等が医長殿にして東洋一のJ坂大の院長きん。がおよそ病院の院長さんてな第一印象よりは寧ろ大人の風格ありとの楠本総長の言は正鵠を得たるものか。去る年の5月に院長に就任されてよりあたかも戦車の如く朝は8時から夕刻は遅くまで或は外来廻診講義にと教授として活動される一方,院長としての重職は先生をして非常時局に於ける阪大運行の最高手腕に遺憾なく発揮せしめられている。正に登竜時を得て雲を呼ぶの感あらしめる。最も得意とする所は東上せられる時に夜行に行って夜行でかえられて直ちに廻診外来処置を平気でなさる所である。斗酒尚辞せず弟子が一塊となって体あたりしても一夜明くればけろりとして居られる。恰も双葉山の如く年々歳々益々頑健の度を増されるのは我等の最も快事とするところである。本当にあれだけのエネルギーが如何にして医局で楽まれる2杯の「うどん」によって保持されたものだと思う。内外に何か大きな問題が起って来ると相模の五郎正宗玉を払うが如く之を処置せらるは我田引水乍ら惚々させらるる事を特に強調し度い。内に於ては人情院長として看護婦迄に思慕せられる。
 一見無粋に見えるも多趣味にして俳諮は大虚学人と称して一風をなし,又野笛と称して随筆和歌をものせらる。凡そ負けること事は嫌な万で医局の若者を引卒されても,釣で御座れハイキングでござれいつも首位を獲得される。さわあれ酔が廻ればどこから出ると思わるる様な美声をはりあげ常盤津の一つも物せらる所を見ればしのはるるものあり」 また院長業務の忙しい中を,「午后2時より医長室に集められ,各自の研究事項に就き質問指導を賜る。一同尚今後の研墳を誓えり」との再三の記事もみられる。
 このように清濁合せ飲むスケールの大きな教授と,よき女房役として学識広遠,臨床抜群の谷村助教授,その下に山本弘講師(昭和5年本学卒)を先頭に多士済々50名になんなんとする教室員がひしめき,活気にあふれた診療と研究の日々が想起され,昭和10〜14年頃が我が教室の1つの黄金期ということが出来よう。
 ところが昭和12年7月7日虚構橋事件の勃発から北支に風雲急をつげるに従い,教室員の入営応召も漸次その数を増し,昭和14年1月には森野昌一氏戦死の悲報がとどく。佐谷教授は院長満期に引続き,15年6月から18年6月まで戦時中の医学部長の職にあり,その後附属医専部長も務められた。また年次入局者は昭和14年(1939)の8名を頂点として,急激に減少しとくに第2次大戦中はばったりと絶え,戦局の激化と共に日々の診療にも事を欠く様であった。戦争末期の模様を谷末喜氏(昭和10年本学卒)は次のように語っている。
 「医局は昔日の面影は全くなく,佐谷,谷村両先生を除いては,僅かに今北医局長,田村峯雄(昭9本学卒,後年大阪市大教授)を始めとする極く少数の人員で,いつもひっそりしており,とてもじっくりと腰を落つけて勉強に専念する心、の余裕もなく,一方戦局は次第に悪化の一路を辿って行った。私も病院内の要員としてや教室を苦るための万年当直クをしつづけた。その間,食糧仕入れには随分と苦心した。」
 その間谷村助教授は昭和16年(1941)12月教授となり皮膚科学講座担任となった。大阪地方会は戦争中も休まず開催されていたが,昭和20年2月以降は一時中止となり,研究は勿論のこと診療すら相次ぐ空襲のため様に出来ない状態となった。かくして6月15日終戦の日を迎える。9月29日終戦の目から僅か40日,両教授及び我が教室員各位の熱意により大阪地方会が戦後第1回を開催したことば特筆すべきことと考える。ぼつぼつ復員して教室に復帰するもの,或いは新らしく入局するものも加わり,物資の極度に乏しい中をフェニックスは廃墟の中から立ち上ろうとするが,まだまだ戦争の爪跡は大きく,復興にあたっては年月を要した。そのさ中,佐谷有吉教授は昭和21年(1946)3月定年退官された。その後大阪国立病院長に迎えられ,医行政の面で益々敏腕を振われたが,昭和32年9月23日心筋硬塞のため逝去された。享年73才。

皮膚科同窓会誌−開講75周年記念誌−
佐野榮春第5代教授著 
「大阪大学皮膚科学教室75年の歩みを顧みて −教室史によせる反省−」より抜粋 
昭和53(1979)年6月発刊 

※一部加筆修正箇所