大阪大学医学部皮膚科学教室
谷村忠保3代教授
昭和21年(1946)−昭和30年(1955)
 谷村忠保教授は大正5年(1916)大阪府立医大を卒業,細菌学教室(主任 福原義柄教授)に入り,翌年皮膚科学教室に転じた。大正9−11年の間解剖学教室に於て大串菊太郎教授の指導を受け,11年10月より12年3月まで東京帝大皮膚科に於いて土肥靂蔵教授に学び,同12年4月欧州に留学し,ドイツキール大学でKlingm山1er教授の教室で約1年3カ月研究に従事し,とくに皮膚結核につき研錯をつみ,大正14年4月帰朝した。在独中の研究をまとめ「結核疹に関する研究(ドイツ文)_lで学位をとり,昭和2年(1927)7月講師,10月皮膚科学教室助教授となった。昭和16年(1941)12月皮膚科学講座担任教授,佐谷教授退官後21年5月より両講座兼担,教室主任となる。同年10月微生物病研究所教授兼任。
 この時代における一番重要な問題は皮膚科と泌尿器科の完全分離であった。戦前に泌尿器科学講座の分離又は新設がなされた大学はまづ九大をトップに東大,京大次いで阪大(昭和16年)及び名大の噸であったが,実体は教授,助教授級のみ専門域を分けるといった程度で,教室員は依然として両科の診療に従事していて,独立した専門分科というにはほど遠く,むしろ両科の近代的発展を大きくはばんでいたという見方がつよい。特に我が教室では完全分離したのは藤浪,楠両教授の着任後で,このような不合理な不安定な移行期が昭和16年から31年まで実に15年の良きに亘ったことは多くの批難の的となった。その間の事情については谷村教授御自身退官後昭和33年(1958)日本医新報第1789号に次のように述べていられる。
 「・…‥昭和16年新たに泌尿器科学が独立し,佐谷先生は泌尿器科学講座を担当せられ,皮膚科学講座は私が受け持つことになった。
 佐谷先生の退官せられる前年末,既にその後任教授について考慮せられ,当時の阪大外科の一助教授(この方は後に阪大整形外科の教授に就任された)に交渉されたが,それは先方の辞退によって成就しなかった。
 昭和21年先生の御退職後間もなく,教授会に於て新たに泌尿器科学担任教授の詮衡が行なわれたが,その結果私に暫く兼任せよとのことであった。その後,私は事ある毎に泌尿器科学兼任を解いて買うよう要請し,昭和22年からでも既に3回正式にこのことを申し出た。その度毎に幸い教授会に於ては私の乞をいれられ詮衡委員会が設立せられたが,毎回私の希望通りにはならず,私の兼任のことがうやむやのうちに継続された。殊に私が昭和26年秋大患にかかり,相当長い間職務を遂行することが出来ず,自責の念にたえず,泌尿器科学担任教授の詮衡を強く申し出たが実現されず,私の停年退職(昭和30年3月)までそのままに経過し,実に満9年間阪大泌尿器科学講座を兼任したことになる。
 その間学界に於ける私に対する非難は相当強いものであった。また先輩・畏友からも御注意を受けたことは一再ならずあった。勿論かかる不始末を来したのは私のおしの弱かったためとも考えられようが,私としては誠心誠意事に当ったつもりであった。また公開の席上に於ても,私の泌尿器科学兼任は阪大の大なるマイナスであることを一再ならず述べて,新教授の選定をさけんだ。 さわさりながら,私の退官した翌年7月,漸く阪大新皮膚科教授並びに新泌尿器科教授が決定された。‥…・」
 戦時中及び戦後の混乱期(21年佐谷教授の退官まで)は止むをえないとしても,谷村先生の御苦心にも拘らず,その後再三の教授詮衡委員会が流れてむやむやのうち兼任がつづいたのは全く奇怪千万といわねばならない。筆者(佐野)も当時在籍したが,若輩の身でことの真相は知るよしもなかったが,学内人事や運営をめぐって複雑な諸事情がからみ,しかもその渦の中心に,後任教授の野望にもえた教室の沁≠フ暗躍があった。教室の恥部ともいうべき過去を今更とりたてるのは気がひけるが,史実としてこの際はっきりしておきたい。
 第2次大戦後半期には教室員も激減し,また厳しい戦時態勢下で研究,教育,診療面で大学の機能が麻痔したことはいづこも同じで,当教室に限ったことではない。終戦直後も暗い混沌たる世情を反映し,教室内では物心共にともすれば放逸と無秩序に流れ勝ちであった。それに中堅層が少なくとくに指導者を欠いたことも拍車をかけたといえる。即ち永く医局の指導的立場にたっていたといわれる山本弘博士は早くから大阪逓信病院部長に赴任して帰らず,戦後各地で設立された新設医大にめぼしい先輩諸氏が教授又は助教授となり教室を去った(大阪市立医大へ櫻根好之助教授,田村峯雄助教授,神戸医大へ上月芙教授・後に佐野栄春助教授,奈良医大へ石川呂義教授,すこし後になるが小林浩助教授,和歌山医大へ西村良応教授等)。従って戦後入局した若い連中にとっては全く梶を失ったのも同然で,また過去の教室との間にもばったり断絶が出来た。このような背景のもとに沛赴ウ授の急速な台頭がおこる0沛赴ウ授は昭和4年本学卒業後長く教室に在籍されたが・政治に長けその方面では学内で有名であったが,臨床,研究いづれの面をとっても大きな難色があった。皮膚科と泌尿器科がどっちもつかずの不自然な形で教室があったというのも,沁≠ノとっては都合のよいことであった。その上谷村教授は病弱であった。そこで色々な手で立場の弱い若手教室員に対して露骨な懐柔第がとられ,その態勢を批判した御し難い人間には出張という名を借りて医局から遠ざける等,沐hとアンチ沐hが色別けされ,電話が盗聴されるというような噂の出るほ どの暗黒時代となった。また学内でも義理人情という名のどろどろした人間関係から沁≠支持した人も少なくなかったと聞く。このような教室又は学内事情はいち早く他大学にも知れ,変な好奇と冷笑をもってみられたことも再三でなく,とくに教室泌尿器科は蔑視され10年間全くの冬眠期に入った。アンチ沐hの若手層はここに始めて学外に出た心ある教室先輩と膝つき合せてその助力を仰ぎ,更に当時学内革新をめざすグルンド会のリーダー(釜洞,関,伴,天野,須田ら諸先生)の強力なバックアップを得て,良識の府に帰すべく努力がつづけられた。その間谷村先生の御苦衷は察するに余りがあるが,病床に臥されていたある日,筆者を呼んで「沍Nに関する教室若手の考え方,とくに臨床,研究面における評価なり指導性について忌惇のない意見を書いてきてくれ。読めば焼き捨てる。君には迷惑をかけない」とのお話で,徹夜で数10枚ほど書き提出したが,その時の先生の痩せた腕を思いだす。かくして昭和31年学外から新教授を迎えて,愈く10年ぶりに教室が正常化された。沛赴ウ授は失意のうちにその後間もなくなくなった。沁≠烽る意味では戦争の犠牲者であり,不幸な人であったといえる。元々大学人としてその器にあらざる人が永く残り教室を聾断すれば,このような過ちが起るということになる。勿論管理者(教授)の毅然たる態度に欠けたことや,教室員の無気力,或は教室内によき後継者が育たなかったという教室の事情等も反省を要する処であろう。いつの世でも,どこの社会でも起りうることであるので,苦い教室の経験として記録に留めておきたい。
 医局生活については本誌の随想欄に寄せられた多くの思い出談から自然と浮び上ってくるので,蛇足を加える必要はなかろうが,終戦直後から数年間の模様を筆者なりに記してみたい。
 前述のように昭和14年度記録的な大量入局のあった後は,15年1名,その後3年ほど絶え,19年卒業ではクラスメート川井一男氏が特別大学院学生として兵役を免除され入局したが,戦時中のことでありイペリット毒ガスの皮膚障害というテーマで第1病理木下良噸教授の指導をうけることとなり,戦後は皮膚科に戻らずそのまま1病へ転じた。私の復員入局時には教室員は僅か数名で,診察者(1診,再診)は別として,予診,陪診,処置室,バイオプー係等は主として晒義広,福田耕平,私,すこしおくれて平井輝一,村田良介等のような新人の手で,入院患者は主として細田寿郎先生(昭和14年本学卒)の直接指導を仰いでいた。佐谷,谷村両先生の夫々の廻診時,処置等につき指示が異うことが多く,その間新米はうろうろして「双頭の鷲」は困るといってよくこぼしていた。田村峯雄,梶山直二,谷末善,志水靖博等諸先生がばらばら復員されたが,外来診察の他は研究室或は出張に出られていたように思う。食糧事情が最悪で,医局で先輩からハンゴーのお粥たきの番を頼まれたことも印象にのこっている。谷村先生も交通事情が悪いので,教授室にとまりこみで,夜になると医局へメザシや餅を焼きに来られていた。当直室には2段ベッド数個が用意されていたが,いつも満員であった。
 酒はなく,他に娯楽もないので,若い連中は御多分に洩れず,研究室のアルコールを薄めて車座になって気炎を挙げていた。病室の廊下も黄昏時には,カンテキが行列して魚を焼く臭と煙が充満して向うが見えぬ様であった。ともかく医局は極めて家庭的であったといえる。
 外来患者は皮膚病,性病,泌尿器疾患(結核が多かった)ごっちゃまぜであったが,皮膚科に限っていうと,戦後猫漱をきわめたのは折癖で,甚しいときは新患の%〜舛をしめ,梅毒とくに顕症梅毒も世相を皮映して極めて多かった。処置室では毎日サルバルサン,すこし経ってマフアルゾールの注射に明け暮れしていた。他に皮膚結核,膿痴疹等感染症も多くみたことは当時の統計の示・す所であるが,前者は谷村教授のライフワークの1つであり,戦後セファランチンついで抗生物質の登場により治療面が重視された。丸山ワクチンも早くから試用していた。痛もさほど珍らしい疾患でなかったが,どういう訳か谷村先生は患者を前にすると椅子を急に後に引いて天井の扇風機をとめさせ,ゴム手袋をはめた。薬としては抗ヒスタミン剤の開発,続いて抗生物質,ステロイドの登場となり,皮膚病治療に一大転換を来した時代であった。しかしながら主体はあくまで軟膏療法であり,材料不足のたゆ代用品の工夫と共に,基剤の使い分けを喧ましくいわれた。木タール剤(ピテロール,グリテール,ツメノール)が常用され,湿疹には3%グリテール軟膏がよく使われていた。
 教室員の卒後教育は全くの徒弟教育であり,博学強記,豊富な臨床経験では本邦1,2を争う谷村教授の診察ぶりを見学するのが一番の勉強であった。また診断に対しては絶体の権威であった。弟子に対しては極めて厳しく,とくにバイシュライベンにあたって緊張の連続であった。診察の先生をとりかこんで,椅子の後には教室の先輩方が沢山見学していた。学生ポリクリに際しては,学生への質問が時に我々新入医局員に飛んで来たりして,肝を冷やすことも再三であった。当然であるが皮疹の詳細な観察記載をとくに重視され,えてして訳もわからぬままバイオプシーする我々に対し「気違いに刃物」というような辛殊な皮肉をいわれた。むつかしい症例を前にして暫し何もいわれず,診療がすんで部屋へ伺うとJadassohnの教本を読んでおられることもあった。弟子達には詳しい説明はあまりされず,ときに断片的に独り言のようにつぶやかれても新米には何のことか全然判らず,後になりやっと思い当る場合が多かった。晩年長期入院された後,「長く休むと診断がにぶる」と洩されていたこともあった。また皮膚科は3年位で一応判った気になるが10年経てば判らなくなり,永くやればやるほど難かしいとも云われた。努力の方であった。
 学生の講義は割と平明であり,湿疹,じんま疹,梅毒等ポピラーなものに限られていたようであり,北下のいわゆる学用患者のLupus vulgaris等は毎年のように出されていた。講義係は病院屋上のムラージュ室からムラージュを運び,例の黒板拭きが役目で,講義の進行に従い消すタイミングが極めて難かしかった。先生の書かれた教科書は「臨床皮膚科学」之は戦後絶版となり,昭和25年には「皮膚科学と性病科学」(南保書店)が出された。当時としては可成り詳細で専門的に亘るもので,私自身今日も愛蔵しているが,退官後も改訂増補する御意向で我々門弟に計られたこともあったが,その実現はみなかった。
 学会は前述の如く大阪地方会の復興があり,昭和25年(1950)11月には谷村教授も主唱者の1人となって,第1回日皮会中部連合地方会が名古屋で開催された。之は近畿皮泌科集談会の秋の1回を当てたものでその発展とみることが出来る。戦後初の日本医学会総会(昭和22年4月)が大阪で開かれ(佐谷教授が副会頭),谷村教授は第46回日皮会総会の会頭となられた。当時戦後の疲弊甚しく,学会用に越後から米を運んだとも聞いている。送電は時間制限であり,また電圧ドロップで会場用のスライダックスを飛びまわって借りてきたことを記憶している。学会発表は戦前より続いていた通り図表を大きな紙に書き,木枠につり下げ,1枚づつ手でおとして行くという形式で,学会出張は大きな貨物と交通難の為体力を要した。次いでエビディアスコープからスライドの時代に入るが,カラースライドの学会利用は当時まだ蓼々たるものであった。特に顕微鏡スライドをカラーでとり学会で発表したのは昭和25〜26年頃で,わが教室が皮膚科畑では一番早かったのではないかと思う。というのはいち早くカラー化を目ざした第1病理の瀧,川井,螺良の諸氏から技術指導と全面的協力を得たからである。また当時,PAS,アルシャンプルー等組織化学の走りの時代で,いち早くその方面に興味をもったこととも無関係ではない。
 研究業績は戦後数年は物心共に十分研究を行える態勢でなかったし,発表詰も紙不足かつ藁紙で,刊行も不定期であった。外国誌は戦争中はとだえ,戦後は進駐軍図書館がよいで,その渇をいやした。教室のテーマはまづ筆頭に療及び鼠療であった。いうまでもなく櫻根,佐谷両先生以来の伝統を継ぎ,とくに昭和16年以降は鼠癒研究に主力がそそがれ,西村真二博士(後,微研教授)の精力的な研究をはじめ,教室員の多くがそれに参加した。研究室はいわゆる皮膚科別館であったが,戦争酎なるころ研究室の一部を国立療療養所・大島青松園野島泰治園長の御好意により大島へ疎開し,数年間研究を続行することが出来た。業績の詳細は医学伝習百年史の癒部門に譲るが,大阪皮膚病研究所創立35周年記念会業績一覧によると,昭和30年までに原著論文及び綜説163篇をかぞえる。
 尚別館における療の診療の変遷につき附記する。設立当時は皮膚科の医員,看菩婦の交代により週3回行われていたが長続きせず,間もなく,外島保養院におられた横井万策氏(大正10年本学卒一後微研助教授一教授)に委嘱し(昭和10年),その後大西基四夫氏(昭和16年東北大卒)が昭和23年から1年間在勤,続いて復員した教室の河野通之氏(昭和11年日本医大卒),志水靖博氏(昭和11年本学卒)がいづれも微研講師,助教授として療診療にあたり,昭和30年以降は伊藤利根太郎氏(昭和23年本学卒⊥現微研教授)に継ぎ,昭和43年微研の千里移転と共に皮膚別館建物は再び医学部に移管され,今日学部非常勤講師として伊藤教授に療の診療,学生実習を御願いしている。
 皮膚結核も谷村教授のライフワークの1つであり,疫学,治療と共に,竹尾研の指導応援をえて,スライドセルカルチャーによる結核菌の増菌を皮膚結核患者につき調べていた(大島知之,佐野栄春)。他にワッセルマン反応とか駆梅療法に関する論文も多い。また谷村先生は御自身の専門域のみならず,広く各人の発意を生かされ,シュワルツマン反応(釜谷武彦,坂本邦樹),肝硬変とVascular spider(吉野一正),皮膚ビタミンCと副腎皮質ホルモン(小林浩)等,また第3解剖黒津教授の指導をえて,自律神経中枢と皮膚機能(村田良介,佐野栄春,井本勢太郎,塩岡毅一等)がぼつぼつ行われるようになった。
 症例報告も喧ましくいわれたが,我々若輩にはその臭価がわからず打捨ててしまったものも多く,また掲載誌の少ないこともあり,低調であった。
 昭和25年以降,本学出身者の入局も毎年その数を増し,やっと戦後の疲弊も回復しかかった頃,谷村教授が病気となられ,昭和26〜27年阪大病院内科病室に入院静養されることとなった。 教室行事としては,伝統的に元且の医局にわける新年挨拶会と年末の忘年会があったが,時代も悪くレクリエーションは少かったように思う。谷村先生の門下生の会として「和楽会」があり櫛羅のお宅に招待された記憶もあるが,同窓会例会は教室内の暗雲を反映してか永く中絶の形であった。その間特筆すべき教室行事としては皮膚科教室開講50周年記念会を挙げねばならない。昭和28年(1953)1月10日,時の学長,医学部長,附属病院長の臨席のもとに教室関係の諸先輩の多数参集をえて盛大に開催された。当日,皮膚科,性病科,泌尿器科の各領域を代表して,教室先輩の横根好之助(大阪市立大学),黒田信夫(大阪府立難波病院),上月実(神戸医大)の3博士から記念講演があり,記念出版として谷村忠保著l ̄鼠療−1が刊行せられた。 その後谷村教授は健康を回復され,昭和30年(1955)2月24日,「我が歩みし道」と超して阪大病院東講堂において最終講義を行い,同年3月31日付けで定年退官きれた。退官後苫屋で開業されるかたわら,大阪地方会,神戸集談会等に御出席になり後進に対したゆまぬ御指導と御激励をいただいていたが,昭和36年先生の古稀祝賀記念として記念論文集刊行が同窓会の手によって行われた。当時再び病床に臥される日が多かったが,その中を原稿の校閲校正の筆をとっておられた。そこには谷村先生がこれまで内外に報告された欧文論文を掲げ,次に教室同窓会員より寄せられた欧文論文を記し,最後に先生の和文論文並びに指導論文を目録としてあげている。正に谷村皮膚科学の集大成とというべきものであった。
 昭和41年4月には「ずいひつ卒業五十年記念」として,これまで各所に載せた随想を一まとめとし,約40年前の外遊中の思い出を「渡欧雑記」として附している。その中には横根孝之進先生,土肥慶蔵先生,佐谷有吉先生,大串菊太郎先生等恩師によせる追憶と謝辞が述べられ,また永い学究生活を顧みての所感或は交友の数々,御家族のこと等,淡々とした筆の中にかなり赤裸々に語られている。記録として興味をもった1つに「陶器のムラージュ」というのがある。教室のムラージュ作りの辻本氏の苦心と共に,佐谷先生の発案で従来の磯による標本に代って陶器で作ろうということで,京都伏見へ日参して3年ほど続けたが,遂に陶器ムラージュは成功しなかったという。先生は畝傍中学の出身で歴史ことに日本上代史に若い頃から興味を抱かれ,国史を播き,その方面での交友も多くもたれ,飛鳥,奈良時代の古代遣址を探渉されると聞いていたが,随想集の中でもこんな未熟な医者になるよりは歴史を修めた方がよかったと「私は誤って医者になった」と書かれている。このように先生は追憶談にもみられるように記憶力抜群,趣味豊かで,文筆にも長け,性素朴なかざらぬ万であった。その人間的な弱さが晩年病弱なことと相侯って,教室管理の面で悲劇の主となられたのは残念であるが,臨床,研究共に超一流で,櫻根先生以来の大阪学派の中心としてその発展につくされた功績は極めて大であった。昭和42年(1967)11月6日逝去された。享年76才。

皮膚科同窓会誌−開講75周年記念誌−
佐野榮春第5代教授著 
「大阪大学皮膚科学教室75年の歩みを顧みて −教室史によせる反省−」より抜粋 
昭和53(1979)年6月発刊 

※一部加筆修正箇所